創業約200年の老舗酒蔵を立て直す~リブランド戦略~【後編】 <酒蔵訪問記/日高見 平孝酒造5代目 平井孝浩社長>

今回は、私がお世話になっている五反田の居酒屋さん・わに家さんのご協力で、日頃から飲ませていただいている大好きな日本酒、「日高見」の蔵元・平孝酒造さんにお話しを伺う機会をいただきました。わに家さん、有り難うございます!

前編では、「日高見」というブランドができるまでについて、お伝えしました。そして、日高見といえば「魚」。
後編では、「魚」との出会い、そして東日本大震災を経ての取り組みについてお伝えいたします。

    

■きちんとした知識を得たことで、想いが確信に変わった

Q日高見の味は、どのように造られたのでしょうか。

 酒造りをする方は、一般に、農業大学卒業後、醸造研究所を経て蔵に入ります。対して、私は東北学院大学の出身で、大学で酒の勉強はしてきませんでした。ですので、石巻に戻ったときには、やるきには満ちていたものの、「さぁどうする?」という状態でした。

 酒蔵の出身なので、杜氏さんの酒造りは見てきました。しかし、いざ、自分が造るとなるとどうして良いか分かりません。杜氏さんに酒を渡し、「こういう酒を造って欲しい」とお願いするような状態でした。そんな中、税務署の方から「醸造試験場で勉強してみないか。」とのお誘いを受けたのです。ちょうど、「日高見」のブランドが立ち上がった時期でした。私は、この機会を逃すまいと広島県の醸造試験場で勉強させてもらいました。このときの勉強で、子どものときに見てきた、言わば勉強しないでも知っていた「点」が「線」になったのです。これまでの「理想」が「確信」に変わった瞬間でもありました。すなわち、自分が理想とする酒を造るために、今の蔵に何が足りないのか、ということが実感とした分かりました。この醸造試験場で勉強させてもらったことは、私の人生でとても大きなきっかけとなりました。

Q日高見と言えば、「魚でやるなら日高見だっちゃ」というキャッチコピーがありますが、これはどのようにして生まれたのでしょうか?

 理想の酒造りをするために、足りないものを確認し、それを買っても「日高見」はできません。理想の酒を造るためには、「個性がないとダメ」なんです。

 平孝酒造がある石巻は、海が近く、四季折々、美味しい魚が捕れます。私は、この石巻の地域性を大事にしたいと思いました。海に近い蔵だからこそ、自然と魚に合う酒を造りたいと思っていました。「日高見」の、「魚でやるなら日高見だっちゃ」というキャッチコピーは、この想いを体現したものです。

○平井社長には、日高見と魚の関係についてお話いただきました                

 

■新たな挑戦「地酒屋さんが寿司に合う酒を本気で造ったらどうなるか」

Q「日高見」はお寿司に合うお酒と言われています。
 これは「魚でやるなら日高見だっちゃ」からの必然の流れだったのでしょうか。

 「魚でやるなら日高見だっちゃ」というキャッチコピーが生まれた当時、世間では、出羽桜さんの桜花吟醸や白瀧酒造さんの上善如水といった香りの良い日本酒が流行していました。香りの良い酒は、酵母の発酵管理が難しいのですが、酵母の改良もあり、香りの良い日本酒が増えていた時期でした。「日高見」も吟醸酒のブランドイメージが認知されていましたので、香りの良い酒を造るという方向性で良いかな、と思っていました。

 しかし、香りの良い酒と魚は、なぜかしっくりこない。だんだんと、自分の中で違和感が生まれてきたのです。

 そうしたとき、醸造試験場で勉強した仲間から、金沢の寿司屋に誘われたのです。それまでは、寿司というと、すべての握りが桶で一度に提供されるものと思っていましたが、金沢で食べた寿司は、シャリとネタが渾然一体となっており、口の中でホロッとほどける感じのもので、その美味しさに感動しました。この感動を知るために、翌日もその寿司屋に行ったほどです。

 それから、江戸前鮨を勉強するようになりました。勉強する中で、寿司屋の親方から、「日本酒を持ってきて」と言われ、「日高見」を持っていったとき、「寿司と合わない。酒ばっかりを飲んでいる感じがした」と言われ、衝撃を受けました。日本酒の香りが、寿司の繊細な味を持っていってしまうのです。

 この親方の一言で、「地酒屋さんが寿司に合う酒を本気で造ったらどうなるか」という想いがわき、これが寿司に合う酒を造る始まりとなったのです。

 寿司に合う酒、酒は脇役ということで、辛口の純米酒で行くことを決めましたが、どのくらいの辛口で行くのか等、試行錯誤の連続でした。そして、丁寧な発酵と貯蔵を行うことで平成20年に誕生したのが、「日高見 超辛口純米酒」です。冷やでも燗でも楽しめる純米酒です。

 そして、貝や白身の繊細な甘みを引出すために、平成24年には純米吟醸酒の「弥助」を造りました。「弥助」の命名は、歌舞伎の演目「義経千本桜」にあります。この演目を受け、花柳界では寿司のことを「弥助」といいますが、この名前をよみがえらせたいと思い、命名しました。

○石巻市内お寿司屋さんで頂いた「日高見」超辛口純米吟醸酒                 

 

■東日本大震災と酒造り・次の代に繋がる蔵造り  

Q平孝酒造さんは、東日本大震災で大きな被害を受けた石巻市にあります。東日本大震災は、酒造りにどのように影響したのでしょうか。

 東日本大震災は、大きな転換点となりました。街の大変な状況に愕然とし、蔵も大きな被害を受けましたが、幸いにも平孝酒造の従業員は誰も怪我をしませんでした。立てる人が立たないと復興はないという想いで、復興に携わりました。地元愛に目覚めたのも、この時期です。

 平孝酒造では、震災以前から、将来的に三季醸造の蔵にしたいと思っていました。そのためには、安定した酒を造る、「再現性」が不可欠です。

 震災は、この構想を実現するきっかけとなりました。設備の老朽化の問題を抱えていましたので、震災から2年半の間に麹室、酒母室、発酵室を総ステンレス張りに改修しました。また、震災を機に南部杜氏が引退したことから、30代の若手が酒造りの中心を担うことになりました。

 また、安定した酒造りのために不可欠な、自動洗米浸漬機と温風機付放冷機も導入しました。

○これまで蔵人がザルで洗っていた米を自動で洗米する自動洗米浸漬機             
○蒸した米の水分を飛ばすための温風機付放冷機                       

 そして、社員で酒造りを進める以上、社員の定着は不可欠です。そこで、蔵で働く蔵人たちの労働環境を改善し、「子どもたちが憧れるような職場作り」を進めました。

〇蔵内の休憩室は、居心地の良い職場作りを意識し、リラックスできる空間となっています    
〇麹室、酒母室、発酵室を総ステンレス張りに改修し、温度・衛生管理を徹底。そして、蔵人たちの労働環境の改善も目指しました                           

 東日本大震災で醪がタンクからあふれ出るなど、大きな被害を受けましたが、「ピンチこそチャンス」。震災を機に、これまでの酒造りの体制を刷新し、これまでよりももう2ランク上の蔵を目指して今も走り続けています。

■インタビューを終えて

「東京から石巻へ」、「日高見の誕生まで」、「日高見のリブランド化」そして「東日本大震災の対応」。平井さんが、どのタイミングでも「今、自分にできることは何か」、「何を目指すのか」を常に意識し、積極的に取り組んできたことが伝わってきました。

平井さんは、インタビューの中で「酒の神さまに色々なことを教えてもらった」とおっしゃっていました。もちろん、酒蔵で育った経験が「日高見」の誕生に繋がったと思いますが、何よりもご自身が積極的に学び、新しいことにチャレンジするからこそ、お酒の神さまも応援したのではないかと感じました。

東京から戻り、「日高見」を復活させるまでの、取り組むべきことの取捨選択。そして、「日高見」の誕生に満足することなく、さらに次の可能性を探究する姿勢。いずれも、経営者の姿勢として、とても参考になるものでした。

○インタビュー終了後、玄関前で記念撮影                          

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