今回は、私がお世話になっている五反田の居酒屋さん・わに家さんのご協力で、日頃から飲ませていただいている大好きな日本酒、「日高見」の蔵元・平孝酒造さんにお話しを伺う機会をいただきました。わに家さん、有り難うございます!
前編では、「日高見」というブランドができるまでについて、お伝えしたいと思います。
■廃業危機に、「俺がやってやる!」という勢いだけで東京から石巻へ
Q)平井社長は、東京の会社に就職後、ご実家の平孝酒造に戻られています。「平孝酒造に戻ったのは、どういうきっかけがあったのでしょうか。
私が大学生だった当時、実家を継ぐことが嫌で、とにかく東京で働きたいと思っていました。そして、東京で問屋をやっている会社に就職しました。会社では、お酒を扱う部署にいましたので、仲間内で「このメーカーはこうだ」とよく話していました。
そして、私が就職して2年が経過した頃、父が東京にやってきて「蔵を辞める潮時だと思う。」と言われました。現在のように地酒が知れ渡っていない中、平孝酒造は、地元中心に「新関」という日本酒を売っていました。しかし、大手メーカーのようなスケールメリットはありませんでしたので、大手メーカーに対抗するために「10本買ってくれたら、1本付けますよ。」というサービス合戦を行っていました。これで蔵の体力が削られていく中、オイルショックが重なり、いよいよ経営が厳しくなったという背景がありました。
この当時、会社で本気で頑張っている同僚を見ていると、ピラミッド型社会の中で、自分が井の中の蛙であったことを突きつけられていました。そして、小さい頃から実家で酒造りを側で見ていたこともあり、「ものづくり・酒づくり」に魅力を感じていた時期でもありました。また、私は、会社の仕事を通じて色々な蔵を見ていましたので、うちの蔵も「これ、良いんじゃない!?」と思える点があるとも思っていました。
ですので、父ができなくても自分にはできるはずだと思い、父に「俺が継ぐ」と伝えました。そうしたら、「継がないと言ったのに、なんで戻ってくるんだ!」と言われてしまいました。私も若かったので、父親への反発もあり、「俺がやってやる!」という勢いだけで石巻に帰ることになったんです。
■目の前に待っていた現実の壁。「ゼロ」からのブランド作りへ着手
Q)実際に石巻に戻られて、蔵の様子はどうだったのでしょうか?
一言で言うと、「東京で見ていたのとは違う」ということでした。
経営状態も良くなく、トラックに酒を積んで酒屋さんを回って何とか買ってもらう日々が続きました。新しい酒を造ろうにも、昨年作った酒がタンクに残っている状態では造ることもできません。なんとかしようと、新関で純米吟醸酒を造っても、酒屋さんには「いくらなの?」と言われ、取り合ってもらえませんでした。これは、新関の既存ブランドイメージが固定化していたため、新関で新しいことに挑戦しても受け入れられないということでした。
■「太陽の恵みを伝えられる蔵になりたい」思いを込め、「日高見」復活
Qそういう中で、「日高見」は生まれたのでしょうか?
悲しい毎日が続きましたが、このままではダメだと必死に打開策を考えました。新関のブランドイメージが固定化していましたので、これはもう切り離し、しがらみのない、「ゼロ」からブランドを造ることを決めました。
「新関」は地元の酒で、地元以外に通用する酒を造る。「新関」からの脱皮は、早い段階から考えていましたが、当時の私は24歳くらい。若く経験もなかったため、新しい銘柄は若いときの発想ではなかなか生まれませんでした。生まれても、すでに商標登録がされていたりなど、四苦八苦していました。
そういう中、たまたま、うちの廃盤商品の中に、父が造った「日高見」を見つけたのです。日高見は、昭和50年代に出した酒ですが、このときには廃番になっていました。この名前を見たとき、「これは!」と思いました。
「日高見」は、「日を高く見る国」「日の恵みを受ける国」ということで、日本書紀の「日高見国」にルーツがあります。この名前を見て、「太陽の恵みを伝えられる蔵になりたい」と思ったのです。
Q日高見は、どのように販売していったのでしょうか。
「日高見」は、平成2年、吟醸酒でスタートしました。まずは、「日高見」という良い酒があると知ってもらおうと思ったのです。
この当時、日本酒級別制度がありましたが、平成4年に廃止されることが決まっていました。廃止されると、これまでのような級別ではなく、吟醸酒・純米酒・本醸造酒といった特定名称酒で酒を選んでもらえる時代になるので、まずは吟醸で「日高見」を知ってもらい、その後、純米・本醸造も造っていこうと思っていました。
私は、「うちの酒を良いと思うところを1件1件探す」思いで石巻に戻りましたが、「日高見」の販路については、東京時代に知り合った酒屋さんに大きな影響を受けました。石巻以外、仙台や東京に「日高見」をアピールしていったのです。当時は、地酒の黎明期でもあり、東京で酒屋さん主催の地酒の会があり、そこにも参加させてもらい、「日高見」を知ってもらうようアピールに努めました。
また、「日高見」の認知されていったことの一つに、平成5年にNHK大河ドラマで「炎立つ」が放映されたことに関連して、河北新報社で「日高見の時代」という連載がなされ、そこで「日高見」も取り上げられたことがあります。河北新報社が取り上げてくれたことで、仙台からの問合せが増えていったのです。
〈つづく〉
今回は、「日高見」ブランドができるまでをお伝えしました。いつも頂いているお酒の背景を知ると、頂くときに作り手さんの気持ちが伝わり、味わいが深まります。
日高見といえば「魚」。【後編】では「魚」との出会い、そして東日本大震災を経ての取り組みについてお伝えいたします。